『卵の緒』 原作:瀬尾まいこ

 

声劇用編集:秋本龍之介

 

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いくお  ♂/たくさん(ふつうの小学生。自分が母の本当の子供でないと思っている。

                ※いくお(M)は作文を読むように読んでください。)

 

母さん  ♀/たくさん(竹を割ったような性格の、ともだちの様なお母さん。明るく、気丈。)

 

浅ちゃん ♂/そこそこ(優しいが、あまり感情が表にでない、不器用な性格。)

 

池内くん ♂/そこそこ(いくおのクラスメート。秀才。でも学校にきていない。)

 

先生       ♀/11

いくおの爺ちゃん  ♂/6

いくおの婆ちゃん ♀/2

水野ゆき     ♀/1

池内くんのお母さん♀/1

 

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いくお(M):ぼくは母さんの本当の子供でない

            とかく、子供はそういう事を言いたがる物らしいが、僕の場合は実際そうなのだから深刻だ。

 

母さん   :ねぇいくお、あんたトマトダメだっけ

 

いくお   :ダメだっけ?って、普通母親って子供の好きなものと嫌いなものくらい把握してるんじゃないの?

 

母さん   :フーンそうなんだ 知らなかった。

 

いくお   :変だよ

 

母さん   :なにが

 

いくお(M):ついでに言うと、ぼくの家には父さんがいない。記憶もない。

      でもその事について、ぼくは母さんに聞いたことがない。

 

母さん   :ねぇねぇいくお、もしかしたらこのトマトは新種かも

      昨日のトマトと今日のトマトが同じだと思ったら大間違いだったりして

 

いくお  :(食い気味で)だとしても、 もういいよ。

 

母さん   :そう… ん? このトマト…これは いくおあの、

 

いくお   :やめてよ さっき食べた時、何も言わなかったじゃない。

 

母さん   :なーにつまんない子ねー 『え?そうなの?』くらい言ってよ

 

いくお   :え?そうなの?

 

母さん   :もっと驚いた感じでさぁ

 

いくお   :え!?そうなの!!?

 

母さん   :お、いい感じ いい感じじゃん 鈴江いくお君、見事全国リアクション大会優勝!
     商品はー トマトでーす。

 

いくお   :父さんの事は口にしないほうがいいと、ぼくは小さい頃から悟っていたのだ。

     だから謎は、謎のまま残っている。 『謎』はいつも、せんべいを食べながらテレビを見ている。

     でも僕は最近、その謎が急激に気になりだしていた。なぜかものすごく気になりだしていた。

 

 (パリ…ポリ…パリ…)

 

 

先生   :今日の授業はこれでおしまいです 放課後、みんなが描いた空の絵を貼るから何人か手伝ってね

 

いくお(M):嫌な予感がした  …やっぱり、残ったのはぼくだけだった。

 

先生   :よかった 鈴江くんが残ってくれて

 

いくお   :じゃあ、貼っちゃう?

 

先生   :ふふ、鈴江くんってほんとに頼りになるね

 

いくお(M):ぼくが頼りになるのではない。小学4年生ごときにナメられている青田先生が頼りなさすぎるのだ。

 

先生   :ねぇねぇ、水野さん可愛らしい絵よね ゆきちゃんらしいわ

 

いくお    :太陽のすぐとなりに鳥が飛んでるなんて変だよ

 

先生   :鈴井くんて、水野さんには案外厳しいのね

 

いくお     :べ、べつにそんなことないけど…

 

先生     :そう?

 

いくお     :ねぇ、先生

 

先生   :なに?

 

いくお     :今日さぁ、へその緒の話してたじゃない

 

先生   :そうね

 

いくお     :あれってうちにもあるのかなぁ?

 

先生    :へその緒はね、お母さんと子供を繋いでいるものなの

 

いくお   :お母さんと子供を…

 

先生  :そう 親子の証。 だからね、お父さんがいなくても、鈴江くんの家にもちゃんとあるわよ

 

いくお   :本当に、あると思う?

 

先生  :もちろん!…あるわよ。

 

 

いくお(M):そうか!その手があったんだ! へその緒ひとつで、今までのモヤモヤがはっきりする。

       先生はやっぱり、モノ知りだ!僕は家で、母さんの帰りを待った

       ぼくの家は、マンションの5階にある 
                     エレベーターを使わないのは母さんだけだから、靴音で帰りはすぐに分かった

       母さんに言わせると、エレベーターは人間の足を老化させるダメな発明品なのだそうだ。

       心臓の鼓動が早まった。

 

 

 

 

(駆け足で帰宅した いくお)

 

いくお   :(食い気味)ねぇへその緒みせて!!

 

母さん   :はい?…なんなのそれ

 

いくお   :だからへその緒!

 

母さん   :あんた…まずはお母さんおかえり、もしくは今日もお仕事ご苦労様!でしょ?

 

いくお   :母さんおかえり!ねぇへその緒!

 

母さん   :へその緒?

 

いくお   :ほら、母さんのおなかとこどもを繋げてる奴

 

母さん   :ほぉ、そんなシロモノがあるんだー

 

いくお   :どこの家にもあるんじゃないのー?

 

母さん   :あんたまた変な知恵をつけてきてー…学校ちゅうのはろくなこと教えないのねー

 

いくお   :あるのー? ないのー?

 

母さん   :あるんじゃないのー?何処の家にもあるんだったら…

 

いくお   :だったら見せてよ

 

母さん   :その前にね、夕飯夕飯。人生の楽しみの半分は食にあるんだから 
             だから愛するいくおの為とて、それは譲れないわ

     今日はオムレツとベーコンとほうれん草のサラダ。
             ねぇいくお、ばあちゃんのところでもらってきたタコと大根の煮物

     チンして ほら、ご飯よそってよ もう…そんなにそわそわしないのっ

 

いくお   :いきなりするから…

 

母さん   :食事の時はね、目の前のご飯と一緒にテーブルにいる人の事以外考えちゃダメ
             神聖な儀式の様なものって習ってないの?

     …ったく、青田先生は肝心なところが抜けてるねー…

 

いくお   :ちがうよ、青田先生はわるくないって

 

母さん   :じゃあ、ここでジャンピングクイズー 青田先生のために頑張ってくださいー

 

いくお(M):母さんはこういうふうに、いつもクイズを始める。
                  そしてなぜか、いきなりジャンピングクイズなのだ。

 

母さん   :あー、さて、このタコですが やわらかーくなるために
             いくおくんが大好きなあるものが入っています。それはなんでしょう?

 

いくお   :そんなのわかんないよ

 

母さん   :ヒント、飲み物

 

いくお   :オレンジジュース

 

母さん   :ちがいまーす

 

いくお   :じゃあ、牛乳

 

母さん   :なわけないでしょ

 

いくお   :じゃあフルーツ牛乳

 

母さん   :はぁー 意味不明だー 
             これ以上いくおくんのトンチンカンぶりを見るのは、母親として辛いので答えを発表します

      …サイダーでーす!

 

いくお   :え?あのシャワシャワの?

 

母さん   :そうそう、あのシャワシャワにはね、ものをやわらかーくする力があるの
             だからさ、サイダーばっか飲んでると

     このタコみたいにぐにゃぐにゃーってなっちゃうよー

 

いくお   :うわぁっ

 

母さん   :あはは こどもだねー クイズに夢中になって、へその緒のことわすれてる

 

いくお   :わ、忘れてないよっ!

 

母さん   :そう?

 

いくお   :ダメだよ、ごはん終わったら絶対見せてよ

 

いくお(M):そして食後。母さんがうやうやしく差し出したのは、薄く模様の入った和紙でできた箱だった。

 

いくお   :…この間食べた紅白まんじゅうの箱じゃない?

 

母さん   :…気のせいよ

 

いくお   :この中に入ってるの?

 

母さん   :うーん、まぁ一応へその緒ってことになるわね

 

いくお   :開けていい?

 

母さん   :どうぞ

 

いくお(M):青田先生が見せてくれたへその緒とはかなり違っていた。
                 白くて小さな破片がいくつか …卵の殻だ。

 

母さん   :どう?これで納得した?

 

いくお   :これって、卵の殻…だよね?

 

母さん   :うん、そだよ

 

いくお   :なんでへその緒が卵の殻なの?

 

母さん   :だって、いくおは卵で産んだんだもん。だからぁ

 

いくお   :哺乳類は卵では産まれないよ!

 

母さん   :いくお、今は21世紀 火星の様子がわかるの。
             なんでもできるこの時代に、べつにこどもを卵で産むくらい普通よ普通。

 

いくお   :でも…へその緒が親子の証だって先生が…

 

母さん   :教師の言うことを鵜呑みにしたって賢くなれません
             へその緒なんて、ちょっと大きいスーパーに行ったら100円前後で売ってるよ

 

いくお   :…じゃあ、卵の殻が僕の家の親子の証なの?

 

母さん   :まさか

 

いくお   :じゃあ証はどこ?

 

母さん   :あんた、ほんとバカねー 証ってのは物質じゃないから見えないの

 

いくお   :結局ボクが母さんのホントの子供じゃないからでしょ!

 

母さん   :あーもう仕方ないなぁー
             特別に親子の証を見せてやるとするか
             これすごく体力消耗するからあんまりやりたくないんだけど

             じゃ、いくわよーっ!

 

いくお(M):母さんは腕まくりをすると、いきなり力任せに僕を抱きしめた。
                 それはとても、とても強い力で。僕は一瞬、息ができなかった。

 

母さん   :…見えた?証。

 

いくお   :見えない!痛かっただけ…

 

母さん   :なんだーまだまだ修行が足りないなー
             でも、もう少し大きくなったらちゃんと見えるようになるよ

 

いくお(M):結局、本当の子供ではないという疑惑は晴れなかった。
               『謎』は今も、家でテレビを見ながらせんべいを食べている。

 

(パリ…ポリ…)

 

 

 

 

いくお(M):5年の夏休み明け、池内くんが学校に来なくなった。

             池内くんは学級代表で、運動も勉強も良くでき、みんなに好かれていた。
      池内くんが前に出て一言、

 

池内くん :一度しか言わないからよく聞いてください

 

いくお(M):と、言えばみんな静かになった。 はっきり言って、青田先生より一目置かれていた。

              池内くんがなぜ学校に来ないのか、僕にはさっぱりわからなかった。

     「鈴江くん、掃除ちゃんとやってよね。」とか「そうよ、池内くんがいないと、

                うちの班には鈴江くんしか男子いないんだから」なんて言われる。

      そうなのだ。池内くんがいないと、掃除も道徳の話し合いも社会科見学も、
      みーんな女子と話し合いをしないとならない

         

             給食の時間なんか…
           「男はやっぱり顔だよ,ブサイクが優しくても、気持ち悪いだけだもんね」なんて会話をしてるのだ。

     …かなりキツイ。どうやって話に入っていけというのだ。

 

水野     :鈴江くんトマト嫌いでしょ?あたし食べようか?

 

いくお   :あ、ありがとう

 

いくお(M):水野だけは…まぁいいとして。

 

 

 

 

母さん   :それってさぁ、今はやりの不登校ってやつじゃないの?

 

いくお   :不登校?

 

母さん   :だって何度も学校休んでんでしょ

 

いくお   :ねぇ母さん、スイカもう4日めだよ なんで二人暮らしなのに丸ごと買ってくるの?

 

母さん   :だって、まん丸じゃないとスイカって感じしないもん。

 

いくお   :池内くん、もう学校来ないのかなぁ

 

母さん   :ねぇねぇ、それよりさ母さんの話聞いてくんないかな?

 

いくお   :…もしかしてまた?

 

母さん   :そう、またあの人の話

 

いくお(M):4月から母さんは、ほとんど毎日同じ人の話ばかりしている 母さんが言うには、
                恐ろしくかっこ いい人なのだという

 

母さん   :いやぁ、今日ね 浅ちゃんに話しかけられちゃってさ

          『鈴江さんって、貴美子っていうんだね、僕の姉の名前と同じだよ』だって、すごくなぁい?

 

いくお   :毎日なにしてるんだろ池内くん。

 

母さん   :それってさぁ、あたしの下の名前も知ってるってことじゃない?
             普通会社の人の下の名前なんて興味ないもんね

 

いくお   :大丈夫なのかなぁ 勉強しなくて

 

母さん   :いくお、あんたお母さんの話聞いてる?

 

いくお   :…きいてるよ

 

母さん   :あした、行ってみたら?池内くんの家に

 

いくお   :なんで?

 

母さん   :だっていくお、池内くん池内くんってうるさいんだもん!

 

いくお(M):自分こそどうなのだ。 
                でも、ぼくは母さんの言うとおり、池内くんの家に行ってみようと思った。

 

 

 

 

 

池内くん :ちょうど昨日、川下と宮内が来たんだよ たまにプリントとか持ってきてくれるんだ

 

いくお   :元気なんだね、池内くん

 

池内くん :今の班、男って鈴江ひとりなんだってね 悪いな

 

いくお   :そうだよ!

 

池内くん :でもいっか、水野がいるもんな

 

いくお   :な、なんで水野が出てくるんだよ いらないよあんなの

 

池内母   :こんにちは

 

いくお   :鈴江です。 お邪魔してます。

 

池内母   :鈴江くん、礼儀正しいのね…ゆっくりしてってね?

 

いくお   :ハイ。  …池内くんっておぼっちゃんなんだね

 

池内くん :なんで?

 

いくお   :だって普通、子供の部屋にノックなんてしないよ? しかもおばさん、ブラウス着てるし。

           うちの母さんなんて、家にいるときは短パンとTシャツ、おやつはいつもスイカだし。

 

池内くん :俺は、おじゃまします!なんて言っちゃう鈴江のほうが凄いと思ったけどね

 

いくお   :聞いてもいいかな?

 

池内くん :なに?

 

いくお   :あのさ、なんで池内くんみたいな奴が学校こないの?…
             別に嫌なことがあるようにも思えないけど…

 

池内くん :鈴江って、以外にダイレクトなんだな!

 

いくお   :あ、ごめん…

 

池内くん :…俺んち、中学のねぇちゃんもいるんだけど、これも去年から学校行ってないのね。
                でも、ぜんぜん大丈夫なんだよ

 

いくお   :勉強、わからなくならない?

 

池内くん :教科書読めばわかるよ うるさい教室で、先生のわかりづらい説明聞いてるより頭に入る。

 

いくお   :…だからこないの?

 

池内くん :実験かな

 

いくお   :実験?

 

池内くん :…なーんて、自分でもよくわからないんだ。

 

いくお   :…とにかく、早く学校においでよ!

 

いくお(M):池内くんは、それには答えず、ただニヤリと笑った。
                 学校の様子なんかをひと通り話してしまうと、

       もうあまり、会話は 弾まなかった。
       でも池内くんと、ポツンポツンと話しているだけで、楽しかった。

      部屋には西日が溢れ、おばさんが夕食を作る匂いが溢れていた。

 

 

 

 

 

 

 

母さん   :うん、おいし。 ねぇいくお、自分が好きな人が誰か、見分ける方法教えてあげよっか?

 

いくお   :なに?

 

母さん   :あのね、すごーく美味しいものを食べた時って、あの人にも食べてほしいって思うでしょ
     ね?そう思う人こそ、今自分が一番好きな人なんだって。

 

いくお   :へぇー

 

母さん   :さて、今日のこのハンバーグ かなりの出来でしょう?
             表面はカリッと 中はジューシー 肉汁とろけそーう!

    それではいくおくん、あなたがこのハンバーグを食べてほしいと思うのはだーれだ?

 

いくお   :うーん…

 

母さん   :ほれほれ、青田先生?それとも水野のゆきちゃん?

 

いくお   :わかんないよ

 

母さん   :なに、つまんないの せっかくお母さんが心をこめてつくったハンバーグも、

     いくおのハートを掴むまでではなかったか。

 

いくお   :そんなことないよ!すごく美味しい。

 

母さん   :ありがと。 
             でも、きっと問題はハンバーグじゃなくて、
             いくおにはまだこのハンバーグを食べてほしいと思うほど、

     好きな人はいないって事ね。

 

いくお   :まぁね

 

母さん   :ふふ、ちなみに母さんにはすごーく食べてほしい人がいるんだけどなぁー

 

いくお   :浅ちゃんでしょ

 

母さん   :え、え?えー!なんでわかるのーーいくおー!

 

いくお  :あれだけ毎日同じ名前を聞かされたら、誰だってわかるよ。

 

母さん   :あぁ、もちろんいくおはダントツ一位だけど、もう食べてるしー…ねぇ、よんでいい?

 

いくお  :別にいいけど…

 

いくお(M):ぼくの知らないうちに母さんは、家に呼ぶくらい浅ちゃんと仲良しになっていた。

 

母さん   :もしもーし、あ、浅ちゃん?あたしだけどぉ…

 

 

 

 

 

浅ちゃん :(ぶっきらぼうに)
     こんばんは。…すっかり遅くなってしまって…マンションの場所がわかりずらかったんだ。

 

母さん   :はい、えーっと 彼が浅ちゃん、こっちがいくお。

 

いくお   :こんばんは。いくおです。

 

母さん   :今名前言ったよw

 

浅ちゃん :浅井秀介です。…夜遅く、おじゃまして、ごめんなさい。

 

いくお   :な、なにをおっしゃいますやら!

 

母さん   :(笑う)

 

いくお(M):浅ちゃんがおそろしくかっこいいかは、僕にはわからなかった。

               背が高くて、でっかくて、顔はちょっと怖いけど、
                 笑うと「浅ちゃん」という呼び名通り、愛らしい顔になった。

 

母さん   :さぁ、どうぞ

 

浅ちゃん :(ぶっきらぼうに)いただきます。

 

母さん   :いくお、いくら男前だからって、そんなに見ないの。

 

いくお   :フランス人みたい

 

母・浅ちゃん「なにが!?」

 

いくお   :いや、浅ちゃんの手、すごく食べ方が上手だから。 
             きっとフランス人ってこんなかんじかな?って思って

 

浅ちゃん :いくおくんって、鈴江さんから聞いてた通りの男の子だね。

 

いくお   :僕も浅ちゃんのこと、母さんから聞いてるよ

 

浅ちゃん :えっ?  …じゃあ俺が30歳で、君の母さんより3つ年上で、

              会社のすぐ側の小さなアパートに住んでいて、からっきし泳げない事も?

 

いくお   :それはきいてない。

 

母さん   :はぁ、ったく二人ともわかってないね そんな基本的なことは、ちっとも大事じゃないの

 

いくお(M):ぼくは少し、安心した。だって母さんが、あんなに浅ちゃんの事を好きだと言っていたのに

                 ぼくと二人でいる時と何も変わらなかったから。

 

浅ちゃん :ごちそうさま。

 

いくお(M):浅ちゃんは、お茶を一口だけゴクリと飲むと、立ち上がった。
                 浅ちゃんのさよならのあっけなさは

       ぼくが見た大人のお別れの、ダントツ一位だった。

 

       その後も、母さんはビーフシチューとか筑前煮とかエビチリとか、美味しい夕飯を作る。
                 時々、浅ちゃんを呼んだ。

               あいかわらず浅ちゃんは、全部きれいに食べると、お茶をゴクッと一口飲んで、

 

浅ちゃん :美味しかった。ごちそうさま。

 

いくお(M):と言って、風のように帰ってしまった。

            そしてまた、風のようにやってきて、僕らのテーブルに座った

 

いくお、母さん、浅ちゃん「いただきまーす」

 

いくお(M):その日は、肉団子だった。 
                 そのころには、浅ちゃんも食事の後にすこしだけゆっくりするようになっていた。

 

 

 

 

いくお(長い階段をのぼって息が上がっている)

 

いくお(M):爺ちゃんと婆ちゃんの家は、神社を通りぬけ、ぼくの家から20分のところにある。

      友達と遊んだ帰り、ぼくは毎日二人の家による。

 

 

婆ちゃん :爺ちゃん、そろそろ上がったらどうですか?お茶が入りましたよ。

 

爺ちゃん :お、おん。

 

いくお   :爺ちゃん、猫のモノなんか増えた?

 

いくお(M):爺ちゃんは猫グッズを集めている。

 

爺ちゃん :うん、お客さんからもらったんだが、これは珍しいものだよ。

 

いくお   :わっ!すごい おはじきだ。…一個一個に猫がいるね。

 

爺ちゃん :気に入ったか?

 

いくお   :かなり!

 

爺ちゃん :坊は、いくつになったんだっけ?

 

いくお   :11歳!

 

爺ちゃん :よぉし、じゃあ11個もっておゆき

 

いくお   :うん

 

爺ちゃん :いいやつを選べよ 男は、決断がうまくないとダメなんだ。

 

いくお(M):爺ちゃんはすぐに、男はこうだ、男ならこうしろ と言う。

      父さんがいないから、僕が男らしくなくなるのではないかと心配しているのだ。

      僕の本当の父さんって…どんな人だったんだろう。


(パリ…パリ…ポリ…)

また、あの音がした。『謎』がせんべいを食べる音…。

 

いくお   :あの、さ…」

 

婆ちゃん :(食い気味で)ああ、育ちゃん 雨が振りそうだから今日は早めに帰った方がいいわ

 

いくお(M):僕は、降りだした雨に、濡れながら歩いた。

               母さんはどんなに降水確率が高くても、大雨じゃない限り傘を持たずに家を出る。
       だからしょっちゅうずぶ濡れで帰ってくる。

 

母さん   :雨って、わざわざ傘で防がなきゃいけないものじゃないよ。
             夕暮れでも海でも山でも一人ぼっちで歩くのっていい。

            …ひとりじゃないって確信があるときはね。

 

いくお(M):僕はポケットの中の猫のおはじきをそっと握りしめて、
               『ひとりじゃない』ってどういうことなんだろう?とおもった。

 

           こうして、秋も深まった。

 

 

 

 

 

いくお   :いくら産地直売のニンジンに感動したからって5日連続はやりすぎなんじゃない?

 

母さん   :なーに、感動の度合いの問題よ。たった一日人参料理をしたからって、それじゃ感動伝わらないよ

 

いくお   :もう十分伝わったよ

 

母さん   :そう、よかった

 

いくお   :ねぇ今度いつ浅ちゃん呼ぶの?

 

母さん   :んー… どうかなー… 

 

いくお   :浅ちゃんがこないと、つまらないよ。

 

母さん   :ほんとに? 実はねー いくおに話がある。

 

いくお   :なに?

 

母さん   :母さんさ、浅ちゃんとキスをして、それ以上のことも、してしまったんだ。

 

いくお   :なにそれ。

 

母さん   :となるとだな、
            『美味しい料理ができたわ、ちょっと来てー』なんて軽快な気持ちにならないんだなー

 

いくお(M):そんなこと言われても困る。僕はどうリアクションしたらいいのかわからず、黙っていた。

 

母さん   :もう恋愛関係になっちったから、もっと本腰を入れないといけないっていうか…

 

いくお   :ふーん…

 

母さん   :めんどうなんだなー これが

 

いくお   :浅ちゃんは、母さんのことが好きだよ

 

母さん   :うん、わかってるよ

 

いくお(M):母さんが、自分のことを自分のペースで話すのを見ていると、
                 やっぱり本当の母さんじゃないんだな。と思う。

                それに気づくのが、悲しいとか嫌だとかじゃなくて、ただ、そう思う。

 

母さん   :いくお、もう寝たら?

 

いくお   :まだ8時だよ

 

いくお(M):ぼくは、明日こそニンジン料理出ないことを祈りながら、眠りについた。

       母さんは、しばらく一人、缶ビールを飲んでいるようだった。

 

 

 

 

 

いくお   :なに?この匂い。

 

母さん   :あ、いくお おはよう! はやいねぇ、まだ6時半だよ?

 

いくお   :(大あくびしながら)だから目が覚めちゃって…

 

母さん   :うん、さすがいくおだ。
にんじんブレッドの出来上がりとともに起きてくるとは もう、にんじん伯爵の座はあんたに譲る!

 

いくお   :に、にんじん伯爵?

 

母さん   :にんじんフェア6日目の朝でーす!おいしいぞーにんじんブレッド

 

いくお   :…馬になった気分

 

母さん   :さ、食べて

 

いくお   :いただきまーす

 

母さん   :…ね、どう?

 

いくお   :…おいしい。マジで 全然にんじんって感じしない。

 

母さん   :ねー?でしょー?実はにんじん3本も入ってるんだよ?

 

いくお   :すごい…

 

母さん   :すごいでしょ?

 

いくお   :ねぇ母さん、

 

母さん   :なに?」

 

いくお   :ぼくこれ、池内くんに食べてほしい!

 

母さん   :え?

 

いくお   :母さん前にすごく美味しいものを食べたら、食べてほしい人の顔が浮かぶって言ったでしょ?

 

母さん   :うん

 

いくお   :今池内くんの顔が浮かんだ!池内くんに、このにんじんブレッドを食べてほしい!

 

母さん   :…は、そっか…あー、そうだったんだぁ

 

いくお   :え?

 

母さん   :はぁーやっと分かった いくおは、男の子が好きだったんだねぇー

 

いくお   :えぇ!?

 

母さん   :(食い気味)でも母さん止めない、人を愛する気持ちは自由だもん

 

いくお   :ちょ、ちょっと待ってよ!
             前に池内くんが、どうがんばってもにんじんだけは食べられないって言ってたから

             これを食べればにんじんが好きになるんじゃないかって思っただけ。

 

母さん   :(笑う)

 

いくお   :ぼくは別に…そんなんじゃないよ!ひどいよ真面目に言ってるのに

 

母さん   :ねぇ、7時になったら、池内くんに電話しよう

 

いくお   :電話?

 

母さん   :そう、電話して、せつなーい気持ちを伝えるの

 

いくお   :ダメだよ 男から好きだなんて伝えたら、いくら池内くんでも気持ち悪がるに決まってるよ。

 

母さん   :食べさせたいって気持ちをよ。 池内くんにこのにんじんブレッドをご馳走しましょう!

 

いくお   :でも池内くんが来ても、不登校のことには触れないでよ

 

母さん   :わかってるわかってる。

 

いくお(M):母さんは、7時きっかりに、池内くんの家に電話をし、

                 池内くんのお母さんに、朝早くから我が家に来る許可をとりつけた。

                 僕は、道まで池内くんを迎えに出た。

 

いくお   :おはよう、起きてた?

 

池内くん :僕はいつも、6時に起きているから

 

いくお   :池内くんってなにからなにまで凄いね。

 

池内くん :それより、どうして僕がここに来たのか、よくわかってないんだけど

           お母さんが、とにかく鈴江くんの家にいってらっしゃいって。

 

 

 

母さん   :さ、召し上がれ

 

池内くん :もう、朝ごはん、食べてきちゃったんだけど

 

母さん   :朝ごはんはね、二度食べるくらいの勢いがないと背伸びないよ

 

いくお   :とにかく、食べられるだけ食べてよ、美味しいからさ

 

池内くん :じゃあ、いただきます。

 

いくお   :どう?

 

池内くん :…すごくおいしい。ケーキみたい。

 

いくお   :なんとにんじんで出来てるんだよ

 

池内くん :うそぉ!全然にんじんの味しない。

 

いくお   :3本も入ってるんだって

 

池内くん :えぇ? 全然平気だ…

 

母さん   :ふふ、池内くん、人参の底力に今気づいたわねー

 

池内くん :おばさん、僕この、にんじんブレッドおかわりしていい?

 

母さん   :うん。 はー、不登校児にしては食欲満点ねー

 

いくお   :げ。

 

母さん   :食欲のある男って、三割はハンサムに見えるわ

 

いくお   :不登校って言わないって約束したじゃない」

 

母さん   :ねぇところで池内くん、そのにんじんブレッド誰か食べて欲しいって人、いる?

 

池内くん :…別に

 

母さん   :あのね、いくおはね、池内くんに食べて欲しいって、池内くんのことが大好きだってー

 

いくお   :そ、そ、そんな、別にそういう意味じゃないよ。ただ、いい友達って感じで…

 

母さん   :ははは、焦ってる焦ってるぅ~

 

池内くん :どういう意味でも、人を好きになるってことは、いいことだと思う。

                僕はあんまり、人を好きになれないから逆に貴重に思えるんだ。 
                …あれ?鈴江、学校は?8時だよ。

 

いくお   :ああっ!

 

母さん   :そうだ、今日はお休みにしよう!

 

いくお   :え?

 

母さん   :学校はお休みっ 
             …せっかく池内くん呼んだのに、ただにんじんブレッド食べて、ハイさよならってのは失礼だもんっ

 

いくお   :でも、学校に行かないと…

 

母さん   :池内くんが我が家にいることなんて、滅多にないでしょ これで終わっちゃうなんて残念すぎるわ

 

いくお   :そ、それはそうかもしれないけど…

 

母さん   :そんな不服そうな顔しないで 今日はさ、好きな人と、好きなものを食べる日にしようっ 
             いいよね?池内くん

 

池内くん :もちろん

 

母さん   :やったぁ たくさんご馳走つくるよー っとその前に会社に連絡しなきゃねー
             えーっと、頭痛にしようかなー腹痛にしようかなー

 

いくお   :え?母さんも会社を休むの!?

 

母さん   :うん、休むっ そんで、浅ちゃんも呼ぶっ!

 

いくお   :えぇ!?浅ちゃんも呼ぶのぉ!?

 

いくお(M):その日、浅ちゃんも久々に来た

 

(4人で団欒のガヤ)~

 

いくお(M):ずる休みの、僕ら4人は、一日かけて大量のご馳走を平らげた。
      みんなよく食べて笑った。

      僕らの家に居座る『謎』もテーブルの片隅で、
      ひっそりとにんじんブレッドを食べていたが気にしなかった

      なんだか幸せで、たしかに僕はひとりじゃなかった。

 

 

 

いくお(M):6年の4月、僕の苗字が変わった。

 

母さん   :鈴江いくおより、浅井いくおの方が断然イカしてるわよ。
     母さんにしたってさ鈴江貴美子って、いったいどっちが名前?って感じだったから

     浅井はいいよ、うん。

 

いくお(M):つまり、母さんと浅ちゃんが結婚したのだ。

 

母さん   :いよいよ6年生ね、今朝からハムエッグの卵をダブルにしよう。

 

浅ちゃん :…ん?どうした、いくお その浮かない顔は。

 

いくお   :みんなに、なんて言えばいいのかな? 今日から浅井になりました、鈴江です。 
             鈴江ですが、今日から浅井です!…どっちがいいかなぁ?

 

浅ちゃん :…やっぱり鈴江にすればよかったかなぁー 「あみだくじ」なんかで決めないで。

 

母さん   :あはは、なんだ浅ちゃん ね、いくお、
    転校生じゃないんだから挨拶なんかしなくてもいいのっ 先生が言ってくれるから

 

 

 

 

 

池内くん :よっ浅井!

 

いくお   :あれっ池内くん!

 

池内くん :おはよ!

 

いくお   :どうしたの?

 

池内くん :どうしたのって、普通に学校に来ただけだけど?

 

いくお   :そっかぁ

 

池内くん :鈴江、苗字が変わったんだろ?一番最初に呼んでみようと思ってさ…記念になるかなぁって

 

いくお   :まだ自分でも変な感じなんだけど…

 

池内くん :そのうち慣れるって!

 

 

 

 

 

いくお(M):母さんのお腹が、少しづつ大きくなり始めたのは、僕がすっかり、浅井いくおになった頃だ。

 

母さん   :ふぅ、どっこいしょっと

 

いくお   :ねぇ、今度は卵で産まないの?

 

母さん   :うん、いくおは卵だったから、今度はお腹から産むわ

 

いくお   :じゃあ、ちゃんとあるんだね。へその緒。

 

いくお(M):この子は正真正銘、母さんの本当の子供なんだ。と、おもった。 ただ、そうおもった。

 

母さん   :ねぇ、いくお すごく面白い話してあげよっか?

 

いくお   :なに?

 

母さん   :うん、まぁ、どうぞ座って

 

いくお   :何の話?はやく教えてよ

 

母さん   :ふふ、せっかちな男はもてないよ…ふーっ この話をするのは最初で最後。
     …たぶん、いくお以外には話さない。

 

いくお(M):そういう母さんは、いつもの母さんとは違って見えた。

 

母さん   :母さんはその昔女子大生だった。それはすごく可愛い女子大生だったんだよ。

      で、大学に入って、すぐに恋に落ちた。相手は、16歳年上の先生。

      その人はちっともハンサムじゃなかったし、優しくもなければ

      男らしくもなかった。 なのに母さんは、ひと目で惹かれてしまった。

 

いくお   :いい先生だったんだ。

 

母さん   :全然。彼の授業は最悪だった。何もやる気がなくて、

     ただ適当に教科書を流し読みしてるだけなの。最初は100人いた生徒はどんどん減って、

     そのうち、授業に出席するのは母さんを含めて2,3人になった。

 

いくお   :真面目だったんだね、母さん。

 

母さん   :ううん、違う。他の授業はことごとくサボってた。
             あたし…母さんはね、彼から発せられる、まるで抑揚のない言葉を聞くことや、

     授業の間、殆ど変わらない彼の表情を眺めているのが好きだった。 

     でも、ある日先生が前回と全く同じ授業を始めた。 全く同じ。

     …フザケてるでしょ? で、母さん彼の研究室に抗議に行ったの。 

     …まぁもちろんそれは口実で、彼に近づくためだったんだけど、

    その時先生が言ったの、「僕はもう半年の命なんだ。だからもうやる気がしない。」

 

いくお   :病気だったんだ…

 

母さん   :…先生は、いたって健康だった。…でも、母さんには分かったの。
     ああ、この人は本当に半年の命なんだって…

     でも母さんは、そう言う彼のなにもかも捨て去ったところに惹かれたの。
             残り時間が少ないと知った母さんは、彼に猛アタックした。    

     でも、全然相手にしてくれなかった。
     ある日、母さん彼の研究室に行ってやる気なく伸びた彼の髪の毛を切ってあげてた。

     …その時、先生は話してくれた。奥さんのこと。
             彼の奥さんは1年半前、子供を産んだ時死んじゃったんだって。

     それで、自分が死ぬ前に、良識ある大人の女の人と結婚して、その人に子供を託そうとしていた。
             だから、君の相手をしてる暇はないって。

     …すごい計画でしょ? 母さん先生を愛してたけど、まだ18だったし、
             先生のこどもを育てていこうなんてつもりはなかった…

     いくお、こっからが面白くなるんだけど、…ちょっとココア入れてくるね

 

いくお   :僕が入れてくるよ。

 

母さん   :…はぁ、美味しい。ねぇ、前に言ったっけ 
             いくおはあたしが知ってる中で一番やさしい男の子だって

 

いくお   :はやく話の続きが聞きたかっただけだよ

 

母さん   :ふふ、嘘つき。 そんな心意気じゃあこんなに美味しいココアは入れられないよ

 

いくお   :…それで?

 

母さん   :うん、先生と結婚できないと知っても、なんだか母さんはね、
             先生のこどもがどうしても見たくなったの…うん。

             で、先生に、会わせてって一生懸命お願いした。
             そして…そしてそこでわたしは…人生最大の出会いをしたの。

 

いくお   :人生…最大?

 

母さん   :うん…あのね…私の眼の前に現れた先生のこどもの可愛らしさときたら、
             もう凄いものがあったの。1歳少しの赤ちゃんって

     誰が見ても単純に可愛いものだけど…ちがう、彼のこどもは特別だった。
             ピンクのほっぺに、ふっくらした唇。黒目がちな大きな瞳。

     とにかく、その子は私のハートをぐぐっと捉えて、離さなかったの
             最初は好きな人のこどもだからかなーともおもった。

     ただの母性本能かな、とも。…でも、そんなんじゃないの。 
             衝動、本能。なんかそういう類いのね、激しさで。

     わたしはただひたすらその子を欲しいと思った。欲しいと思ったの。
             こんなに何かを愛おしいと思ったのは、初めてだった。

 

いくお   :それが…僕なの?

 

母さん   :…母さんは、あんたを手に入れた。たくさんの人の反対を押し切って、自分の全てを投げ打って、               いくおを自分のこどもにするために

     大学もやめて、強引に先生と結婚した。
             だれも祝福してくれなかったし、どうなるかさっぱりわかんなかった。でもね、

     すっごく幸せだった…

 

いくお   :…先生は…先生はどうなったの?

 

母さん   :うん、死んだ。宣言通り、結婚してすぐにね。

 

いくお   :そう…

 

母さん   :うん…

 

いくお(M):僕は、たった一瞬の間に、自分に関する色んな事を知ってしまった。
                  なぜか、大きな驚きはなかった。

        ただ、不思議な事に、僕は泣いていた。
                    母さんが可哀想だからでもなく、父さんが死んでしまったからでもない。

          理由は…わからない。ただ、僕の目から、涙が、ポタポタと落ちた。

 

母さん   :長い話になったけど、いくおは母さんの本当の子供ではないって事…だけどね、

 

いくお(M):そう言うと母さんは、いつかみたいに僕をギュッと抱きしめた。…息ができないくらい強く。

 

母さん   :…想像して。たった18の女の子がね、一目見た他人のこどもが欲しくて、欲しくて…

       大学もやめて、死ぬとわかっている男の人と結婚するの。
       そういう無謀な事ができるのは…あたしが、あんたを…

       いくおを、尋常じゃなく、愛しているから。

 

いくお   :かあさん…

 

いくお(M):あの時、見えなかった証が、今はっきりと見えた!
                    僕は母さんから愛されていた!しかも、強烈に!

                  そして僕も、母さんのことが大好きだ。すごく、すごく、大好きだ。

 

 

 

 

 

浅ちゃん :よし、いくお、予行練習しよう。

 

いくお   :なんの?

 

浅ちゃん :赤ちゃんの面倒見るのは、難しいらしいから。この卵で練習しておかないと。

 

いくお   :たまご!?

 

浅ちゃん :赤ちゃんと卵は同じくらい壊れやすいから、練習するには丁度いいんだと。

 

いくお   :…へぇー

 

いくお(M):おかしな提案だと思いながらも、
                    卵と赤ちゃんが同じくらい壊れやすいというのは、なんとなく納得できた。

 

浅ちゃん :いくお、妹と弟、どっちが欲しい?

 

いくお   :弟!

 

浅ちゃん :よし、それじゃあ顔を描こう、男なら凛々しくしないとなぁ。

 

いくお   :鼻がないよ

 

浅ちゃん :…これでどうだっ

 

いくお   :変な顔だなぁ

 

浅ちゃん :いくおの弟だから、名前はいく太郎だ。

 

いくお(M):卵のいく太郎の世話をするのは大変だった。
                    割れないように、布をいっぱいひいたカゴに入れていつも傍らにおいた。

        学校にも連れて行ったし、枕元にも、置いて寝た。 

        めんどくさいけど、僕は、いく太郎が可愛くて仕方がなくなっていた。でも…

        ある朝、いく太郎が、突然消えていた。

 

いくお   :浅ちゃん!!いく太郎が消えたよ!!

 

浅ちゃん :え?いく太郎?あぁ、さっき食べたじゃん。

 

いくお   :何言ってるの、いく太郎がいなくなっちゃったんだよ?

 

浅ちゃん :だからさっきの目玉焼き、あれ、いく太郎。

 

いくお   :ええっ!!そんな…

 

浅ちゃん :大丈夫、明日いくおの本当の弟が生まれるんだよ。
              …食べたってことは、お前は誰よりもいく太郎と仲良しって事だ。

 

 

 

 

 

いくお(M):僕は中学生になった。少し賢くなった僕は、親子の絆はへその緒でも卵でもない事がわかった。

       もっと掴みどころがなくて、確かなモノ。大切なものとはそういうものだ。

       そして僕らの食卓に、妹のいくこが加わった。

 

いくお   :あー、いくこまたこぼしてるよー

 

母さん   :ほんとだぁー…でもなかなか豪快な子だねぇー

 

浅ちゃん :可愛いなぁー…わっ!スーツにこぼれてんじゃん!

 

(できるだけ慌ただしく)

 

母さん   :本当だー!ねぇ、ちょっと、いくお拭くもの

 

いくお   :だってティッシュどこかしらないし

 

浅ちゃん :キッチンペーパー!

 

母さん   :キッチンペーパーキッチンペーパー…

 

(騒ぎながらフェード・アウト)

 

 

 

いくお(M):『謎』のかじるせんべいの音は、いつの間にかしなくなっていた。

僕らの家族は、今日も仲がいい。

 

 

 

(おわり)